ピンク・レディー

ピンク・レディーの曲~シングル売上ランキング

ピンク・レディーの曲の売上ランキングです。 シングル・レコードの販売枚数のトップ10。 1位は「UFO」、2位は「サウスポー」、3位は「ウォンテッド」。 Youtube(ユーチューブ)の動画とともに一覧にしました。 名曲や超有名な曲が勢ぞろい。いずれも作詞:阿久悠(あく・ゆう)、作曲:都倉俊一です。

日本史上最大のアイドル

ピンク・レディーは、歌謡曲が全盛時代だった1970年代において最大のスターであり、 日本史上最強のアイドルと言われています。 中学と高校で同級生だった静岡出身のミイとケイの2人が18歳のときに結成。 1977年のデビューから解散までわずか4年7か月にヒットを連発。とりわけ絶頂期の1978年と1979年には、5枚連続でミリオンセラーを達成。 きらびやかな衣装と、激しく踊る振付のダンスも全国の女の子を夢中にさせました。

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1位~10位

順位 曲名、発売年 解説
UFO

1977年12月

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6枚目のシングル。売上枚数155.4万。 ピンク・レディーにとって最大のヒット。 1978年のレコード大賞を受賞した。 オリコンの年間チャートでも1位。1970~1980年代に「歌謡曲の時代」を牽引(けんいん)したTBS系の歌謡番組「ザ・ベストテン」は1978年1月にスタートしたが、その第1回放送の1位が本曲だった。

歌詞では、女性の宇宙人が主人公。 「地球の男に 飽きたところよ」という名ゼリフが入る。

子どもたちが踊りに夢中になり、 多くの女子が振り付けを覚えた。 「今でもやれと言われればできる」という人は多い。衣装は宇宙服のようなキラキラした感じ。歌とダンスが社会現象的になった。

曲と振り付けが与えられたのは、発表の2時間前だったという。スパンコールの衣装も直前に受け取った。腕と頭を逆に動かすイントロの踊りが難しかったという。 「振り付けも衣装も、一番『飛んでいる』感じ。あれがピークでした」と、後にミーは振り返っている。 また、レコーディングにあたってこの曲のイントロを初めて聞いたときのことを、 ケイは自伝で「全身の毛穴が開き、髪の毛が総立ちになるくらいの衝撃を覚えた」と振り返っている。

前年に大ヒットしたアメリカ映画「未知との遭遇」も意識して作られたという。 1970年代に流行したディスコサウンドの要素もあり、 米国の人気グループだったアース・ウィンド&ファイアのような宇宙的なサウンドが流れている。
サウスポー

1978年3月

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7枚目のシングル。売上枚数146万。 日本の音楽賞の中でレコード大賞に次ぐ注目度があった「日本歌謡大賞」を受賞した。

サウスポーとは、野球で左利きの投手を意味する。 「背番号1の凄いヤツが相手」という歌詞から始まる。 プロ野球の巨人軍の巨人の王貞治(おう・さだはる)と対決するという設定になっている。 この曲がつくられる前年の1977年、王は756号のホームランを打ち、アメリカの選手が持つ世界記録を破った。

強い女性らしさが描かれた曲でもある。 「男ならここで逃げの一手だけど、女にはそんなことはできはしない」という名文句が入る。 作詞は、阿久悠。 ピンク・レディーのヒット曲の大半を手掛けた阿久悠(あく・ゆう)は、 ピンク・レディーに「強い女」「女性優位」の時代への思いを込めていたが、 そんなフェミニスト路線を象徴する曲だと言われている。

最初にこの曲のレコーディングが終わった後、レコード会社のディレクターでピンク・レディーを担当する飯田久彦は「物足りない」と感じ、 作詞の阿久悠と、作曲の都倉俊一の2人に土下座して書き直しを依頼した。 当時超売れっ子だった2人の作家のに与えられた時間は、わずか2日。 その結果、「背番号1のすごいやつ」「魔球はハリケーン」など強烈なインパクトを持ったフレーズが追加されたという。
ウォンテッド(指名手配)

1977年9月

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5枚目のシングル。売上枚数120万。オリコンで12週連続の1位となった。

「ウォンテッド」とはアメリカなどで「指名手配」を意味する言葉として使われる。 自分をもて遊び、逃げて行った男を探し当て、 罰を与えたいという内容。 「あるとき謎の運転手」「あるときアラブの大富豪」などというセリフが入る。 その後、 ムーディな音に「好きよ 好きよ こんなに好きよ もうあなたなしでいられないほどよ」と切なく歌う。 未練たっぷりな揺れる心が描かれている。

ピンク・レディーをアイドル以上の存在にした曲と評価されている。 冒頭で2人がマイクを持つ腕を交差させる振付が斬新だと話題になった。
モンスター

1978年6月

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8枚目のシングル。売上枚数110.2万。 ピンク・レディーにとって、5枚連続のミリオンセラーであり、最後のミリオンセラー。

気弱な怪物を女の子が励ますようなストーリー。 フランケンシュタイン、ドラキュラ、狼男などを連想させるような怪物たちが登場する。

モンスターは見た目と違って傷つきやすく、 人間たちのずる賢さを恐れている。

それまでの曲よりもさらにマンガやアニメ的な要素が強くなった。 小さな子供に従来とは別の意味でも強烈なインパクトを与えた。

ホラー映画仕立てになっており、「キャーッ」と叫ぶイントロが印象的。 1980年代に世界を席巻したマイケル・ジャクソンの「スリラー」を先取り?!したような面もある。
渚のシンドバッド

1977年6月

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4枚目のシングル。売上枚数100万。 「S・O・S」と「カルメン'77」を立て続けに1位にし、 人気が急上昇するなかで発売された。

海岸での光景が思い浮かべやすく、女の子が共感しやすい内容。 シンドバッドとは、 遊び人のプレイボーイのことを指している。 いろいろな海を渡るサーファーように、 女の子を次から次へと手籠めにしている色男が主人公になっている。

「ちょっとお兄さん、なれなれしいわ」とあしらいつつも、 「あなたはセクシー、私はイチコロ」と白状している。

サウンドもダイナミックな展開。 当時としてはたいへん新鮮であり、その後のアイドル音楽の先がけとなったとも言われる。
透明人間

1978年9月

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9枚目のシングル。売上枚数88.6万。 ミリオンセラーは逃したが、 4週連続1位となった。

ピンク・レディーは3か月ごとにシングルを出していたが、 この曲は2か月半でリリースされた。

「透明人間 あらわる あらわる。嘘をいっては困ります。あらわれないのが透明人間です」というサビの歌詞がとりわけ強烈なインパクトを持つ。 映像が目に浮かぶようなスリリングな歌詞。

人気番組の「ザ・ベストテン」では、 最後に「消えますよ」と言って、特殊効果で画面から消え、話題になった。 また、透明人間っぽいスケスケの衣装も注目された。
カメレオン・アーミー

1978年12月

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10枚目のシングル。売上枚数70.8万。 ピンクレディーにとって最後のオリコン1位の曲となった。

題名にある「アーミー」とは、英語でアイドルを応援する「親衛隊」を意味する。 ピンクレディーの親衛隊をテーマにしており、 2人の活動を支えていた全国の親衛隊たちへの感謝の気持ちが込められているという。

エレキギターの音が特徴的。 この曲が発売された後、「UFO」でのレコード大賞受賞が決まり、 キャリアが最高潮に達する。 そして、年明けにアメリカ進出が本格化した。
カルメン'77

1977年3月

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3枚目のシングル。売上枚数66.3万。

金菅楽器を多用したロックになっている。 当時「ブラス・ロック」と呼ばれ、 世界的に流行していた。

「私の名前はカルメンでっす。もちろんあだ名に決まってまっすぅ!」という出だし。 この「まっすぅ!」という語尾が、情熱的で力強い女性を感じさせる。
S・O・S

1976年11月

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2枚目のシングル。売上枚数64.5万。 ピンク・レディーとして初めてオリコン1位を獲得した。 最初はあまり売れていなかったデビュー曲の「ペッパー警部」も同時に大ヒットになった。

乙女チックな歌で、 ピンクレディの中でもかわいらしさが際立つアイドルソング。 全盛期のシングルの中では、 わりとスローテンポな曲でもある。

歌詞は「男は狼なのよ 気をつけなさい」と始まる。 世の中の女子たちに対して、 「簡単に心や体を許してはいけない」というアドバイスをしている。

振付もかわいい系の雰囲気になっている。 サビで「S・O・S」と唄った後にクラップが2回入るのがポイント。
10 ペッパー警部

1976年8月

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デビュー曲。売上枚数60.5万。

バンドの演奏にトランペット(管楽器)の音がかぶさり、テンポが良い。 「色気」や「コミカルさ」が組み合わさったピンク・レディーの世界観がいきなり全開となっている。 ミニ・スカートの衣装で生足をさらしながら、 両ひざを外側に開いて屈伸するという振付が、 当時のお茶の間に大きなインパクトを与えた。 一部の大人からは「下品だ」「若い女の子にこんな格好をさせるなんて」と不評を買った。 しかし、お茶の間の子供たちの心を惹きつけ、 早くも真似をする女の子が出始めた。

振付を担当した土居甫(どい・はじめ)は、 弟子を東京のディスコに何度も送り込み、 黒人が踊っているダンスの動きを振付に取り入れたという。

レコード会社のビクターの社内では事前の評判が良くなく、 上層部は大きなヒットを期待していなかったという。 そもそも、ビクターとしては、より一般的な曲である「乾杯!お嬢さん」をデビュー作と考えており、 奇想天外な「ペッパー警部」はB面に回したい意向だった。

発売当初はあまり売れず、オリコンで100位前後をウロウロしていた。 しかし、新人歌手を対象とした音楽祭などに出演し、 歌う姿がテレビで流れると、 売上が急増。 2曲目のシングル「SOS」が出るころには、 チャート上位に入り、 オリコン1位が「SOS」、3位が「ペッパー警部」という事態が起きた。

作詞をした阿久悠(あく・ゆう)は、「ペッパー」という個人名と、「警部」という言葉がどういうわけか思い浮かび、頭の中で結びついたという。 若いお巡りさんに対して「邪魔をしないで。私たちこれからいいところ」などと語りかける内容になっている。

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ピンク・レディーとは

ケイ(増田恵子)とミー(根本美鶴代)

ケイ ミー
名前 増田恵子
(ますだ・けいこ)
根本美鶴代
(ねもと・みつよ)
別の名前・呼び名(芸名、旧称など) 小林啓子(生まれてから叔母の養子になる前の実名)
増田啓子(叔母の養子になってからの実名)
増田惠子
桑木啓子(くわき・けいこ。2002年6月に結婚して以降)
未唯mie
MIE
未唯(みい)
桑木知二(2002年6月に結婚) ソロになった後の1983年、番組のロケで知り合った。

音響技術者(ミキサー)。 1986年に独立して「ギルド・ジャパン」。 2004年に自己破産した。
音楽ディレクターの佃淳三と1998年に結婚したが、2004年に離婚。
生年月日 1957年9月2日 1958年3月9日
出身 静岡市
家族 生みの父親:小林松平(けいが3歳のときに交通事故で死去)
生みの母親:小林ふさ江
育ての父親: 育ての母親:
ケイの自伝「あこがれ」によると、 ミーは小さいころから両親が働いていて、 5歳下の弟を学校に連れて行って、 自分の机の隣に座らせていたという。 弟の面倒のほか、朝と夜の食事はミーが作る役目だったようだ。
高校 常葉高校(私立、静岡市)
ほかに所属していたグループ 「クッキー」・・・高校時代のデビュー前に2名で結成。 ヤマハのボーカル・スクールに通っているとき、スクールの先生に2人組でやることを提案された。 ケイの自伝「あこがれ」によると、「キャンディーズ」を意識した名前だったという。 ヤマハから仕事をもらい、ギャラも得ていた。
著書 自伝「あこがれ」(2004年、幻冬舎)

支えた作家やスタッフ

名前 役割
阿久悠
(あく・ゆう)
作詞家。放送作家。 相棒となる作曲家として都倉俊一を指名した。 ピンク・レディーの2人が出演したオーディション番組「スター誕生」の審査員であり、放送作家として番組の企画にあたった。
都倉俊一
(とくら・しゅんいち)
作曲家。ピンク・レディーという名前を考え出した。 ピンク・レディーの2人が出演したオーディション番組「スター誕生」の審査員。
土居甫
(どい・はじめ)
ダンスの振付師。 ピンク・レディーの2人が出演したオーディション番組「スター誕生」で、出演者の振り付けを担当していた。
飯田久彦 レコード会社「ビクター」のサラリーマン。 ディレクターとしてピンク・レディーを担当した。

「スター誕生」でデビュー前のピンク・レディー2人を指名した。 「サウスポー」のレコーディングが終わった後、 「物足りない」と感じ、 作詞の阿久悠と、作曲の都倉俊一に土下座して書き直しを依頼した。 その結果、「背番号1のすごいやつ」「魔球はハリケーン」といった優れたフレーズが追加された。
相馬一比古
(そうま・かずひこ)
ディレクター。 マネージャー。 芸能事務所社長として、オーディション番組「スター誕生」でデビュー前のミー&ケイのコンビを指名した。 その後に資金繰りに困り、貫泰夫に救済された後は、社長でなく制作部長という立場になったが、マネージャーとして現場を仕切った。 コンサート活動などを取り仕切った。

ケイの自伝「あこがれ」によれば、 スター誕生の後の面談で、 「君たちを、アメリカのショービジネスで勝負させたい」と口説いた。 それを聞いたケイは感動し、「この人の所に行きたい」と決めたという。 また、母親の家に2名を下宿させていた。

なお、同自伝によれば、けいと恋愛関係にあった時期があった。

2005年1月に、60歳で死去した。
貫泰夫
(ぬき・やすお)
芸能事務所の社長。 証券会社のサラリーマンから脱サラし、 芸能事務所を立ち上げた。 借金に困っていた別の事務所を買い取り、 すぐにピンク・レディーと出会った。 会社の設立時に、学校の同級生だった総会屋から出資を受けたことで、 後に恐喝の被害を受けることになる。
野口よう子 衣装デザイナー。 独特のコスチュームを創作し、ブームを後押しした。 2枚目のシングル「SOS」から担当。 もともと銀座のホステスなどの衣装を手掛けており、芸能人の衣装をつくるのはピンク・レディーが初めてだったという。

ピンク・レディーのプロフィール

静岡市出身。ミーは1958年3月生~、ケイは1957年9月生。昭和を代表する女性デュオ。静岡市の同じ中学、高校に通った。高校の卒業間際、日本テレビ系列のオーディション番組「スター誕生」に合格、芸能界に飛び込んだ。 1976年8月25日、「ペッパー警部」でデビューした。「S・O・S」「カルメン’77」「渚のシンドバッド」とヒット。快進撃を続けた。「SOS」以来9曲連続オリコン1位。 1978年「UFO」でレコ大受賞。同年7月の後楽園コンサートでは2日間で3万7000人を動員。1980年9月1日解散を発表。1981年3月解散。実質活動は約4年だった。 昭和~平成と5度、再結成している。

再結成のときの記事

2005年7月1日

跳びはねる超ミニ、踊る子供心

2005年5月27日、東京国際フォーラム(東京・有楽町)。2003年6月から2年間限定で再結成されたピンク・レディーのコンサートはフィナーレを迎えていた。全国100カ所、延べ40万人以上を動員。ミーちゃん(未唯さん)とケイちゃん(増田恵子さん)はパワフルな振り付けに汗を飛び散らせ、「化粧も落ちるわあ。私たち47歳だからさ」と笑わせた。約5000人のファンも一緒に踊る--。

常識を壊す

静岡市の同じ中学、高校に通ったミーとケイ。2人は1976年8月25日、「ペッパー警部」でデビューした。卒業間際、オーディション番組「スター誕生」に合格、芸能界に飛び込んだ。「会社には別の新人をと言われていて、怒られました。でも、私は歌って踊れるデュエットを作ってみたいと思っていて。ザ・ピーナッツさんが大好きでね」。当時、ビクターのディレクターだった飯田久彦テイチクエンタテインメント会長が振り返る。

しかし年末の新人賞を狙うには8月デビューは遅い。社内の期待は高くなかった。ライバルに追いつくためには斬新なものをやるしかない。作詞家の阿久悠さんには「とにかくおもしろいものを」と依頼したという。

会社が用意したグループ名は当初フォーク調の「白い風船」だった。しかし作曲家の都倉俊一さんが提案した「ピンク・レディー」に変更した。振り付け担当の土居甫(はじめ)さんも常識を壊す、見たことも聞いたこともないような踊りをぶつけようと考えたという。衣装も当時はやっていたロングスカートではなく、極端なミニスカート。警察官が犯人を追いかけるイメージの、足を開くあの大胆な振り付けを初めて見たビクターの上層部は絶句したらしい。「こんなもの売れないだろうと。ますます今に見てろと思いましたね」と飯田さん。大化けか大コケかの賭けだった。

しかし、インパクトは大きかった。純朴そうな女の子が2人、「下品だ」と言われつつ話題を呼び始める。中でもまず子供たちの興味をひいた。「ペッパー警部」はオリコン初登場90位台だったが、11月に2曲目の「SOS」が発売されると「ペッパー警部」も再浮上し、トップ10に2曲がランクイン。「都倉さんとは山本リンダさんとフィンガー5をやったので自信はあった。本人たちもプロ意識を持ち、その気になった。客は次はどの手でくるんだろうと楽しみだったでしょう。作り手と客が裏切り合いをしている、それは沢田研二さんにもありました。企画の時代だったと思います」と阿久さんは話す。戦後生まれが日本の総人口の過半数に達し、時代は豊かな1980年代へ向かっていた。歌番組も勢いがあった。

おもちゃ箱

阿久さんは振り返る。「僕の頭の中にあるおもちゃ箱から何を取り出すか、でした。透明人間、宇宙人、野球のスーパースター……。子供というよりも、人間の中の子供心をつかんだのかもしれません」。「SOS」以来9曲連続オリコン1位。ほとんどがミリオンセラー。6月末に発売された阿久さんの全集「人間万葉歌」にも最多の10曲が収められている。ビデオはまだ家庭になく、子供たちはテレビの前にラジカセをセットし、振り付けをメモした。そして学校に行ってみんなで練習する。「小学6年生」(小学館)を調べると、1977年5月号から1979年3月号までピンク・レディーは「スター人気ランキング」の1位を走り続けていた。キャラクター商品も売れに売れ、年間300億円以上を稼いだという。

しかし、レコード業界は1979年になると一転、しぼんでゆく。1978年にはライバルとされた「キャンディーズ」が「普通の女の子に戻りたい」と引退。インベーダーゲームや外食産業が盛んになり、若者たちの財布が食われたとも言われる。米国進出にも失敗すると、ピンク・レディーブームも一気にしぼみ、1981年3月解散。実質活動は約4年だった。

30年たっても

コンサートはアンコールで最高潮を迎えていた。37歳の同級生という主婦2人は「体が踊りを覚えているんです」と声を張り上げた。興奮し、泣き出す女性もいた。この世代にとって、ピンク・レディーは30年近くたってもまだ間違いなく大スターなのだ。

コラムニストの中森明夫さんは「ピンク・レディーが世の中を変えたことは間違いない。特に女性たちを変えた」と分析する。女の子たちは歌に合わせて「UFO」に乗ったり、「渚のシンドバッド」と出会ったり、「自分は何にでもなれるし、どこにでもいける」という可能性を夢見た。「ピンク・レディーを見て育った女の子たちが、1980年代の文化を生んだ。1980年代はまさに女性の時代。ピンク・レディーはそれを演出したのではないでしょうか」と話す。

ピンク・レディーの後にもたくさんのアイドルグループが生まれたが、果たしてそのどれだけが30年後も歌われ、一緒にそっくりに踊ることができるだろうか。これから先、そんな歌が出てくるだろうか。

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